「モモ」の話
昨日、ゼミの教授から「卒業論文のワード版をください」ってメールが来た。
そういえば先週の飲みの席でPDFだと編集ができないって話をされてたな。
酒が入っていたからすっかり忘れてしまっていた。
すぐにワード版を提出したとも。
そこで思い出した。
どういう流れだったかは忘れてしまったけれど教授の言った「経済学部生は皆、ミヒャエル・エンデを読むべきだ」ってつぶやきを。
帰ってきてから本棚を検めてみるといつ買ったんだかわからない「モモ」が片隅に在った。
裏のラベルから察するに近所のGEOで安売りされてたのを衝動買いしてしまったんだろう。
小学校にも中学校にも、校外のマーチングバンドの合宿所にだっておかれてたこの本、今まで一度として読んだことなかった。
だってハードカバーだと総410Pは結構な質量だもの。
生半な覚悟じゃ読もうとすら思えないね。
それでも教授の言うことだ、読んでみることに。
内容は
イタリア・ローマを思わせるとある街に現れた「時間貯蓄銀行」と称する灰色の男たちによって人々から時間が盗まれてしまい、皆の心から余裕が消えてしまう。しかし貧しくとも友人の話に耳を傾け、その人自身をとりもどさせてくれる不思議な力を持つ少女モモが、冒険のなかで奪われた時間を取り戻す
って話。
あらすじだけ見ると典型的な童話だけれども、その中身は結構深刻な社会問題に対する風刺にあふれている。
本の最後の「訳者のあとがき」はこんな風に始まっている
「時間がない」、「暇がない」—こういう言葉を私たちは毎日聞き、自分でも口にします。忙しい大人ばかりではありません、子供たちまでそうなのです。けれど、これほど足りなくなってしまった「時間」とは、いったい何なのでしょうか?機械的に図ることのできる時間が問題なのではありますまい。そうではなくて、人間の心のうちの時間、人間が人間らしく生きることを可能にする時間、そういう時間が私たちからだんだんと失われてきたようなのです。このとらえどころのない謎のような時間というものが、この不思議なモモの物語の中心テーマなのです。
これから社会人として働く身にある自分としては身につまされるテーマではある。
発行部数がおひざ元のドイツに次ぐ、っていうのも「働きすぎ」と揶揄される日本人だからこそだろう。
物語に登場する「時間どろぼう」は人生の意味に対して漠然とした不安を抱えている人間一人ひとりに対して、もっともらしいことを言って時間の節約を迫ってくる。
自分に与えられる総時間はどれだけか、日常生活で自分は何に・どれだけの時間を割いているか、今後自分に残されている時間はどれだけか、などをもっともらしい数字を並べ立てて説明して不安をあおる。
そして今後の生活の中の無駄(ゆとり)を削って「時間貯蓄銀行」に貯蓄すれば将来的には利息分、より時間的に豊かな生活ができると唆して契約を迫る。
物語の中で時の賢者:マイスター・ゼクンドゥス・ミヌティウス・ホラ(秒・分・時)は「人間が死とは何かを知ったら、怖いとは思わなくなる。そして死を恐れないようになれば、生きる時間を人間から盗むようなことは誰にもできなくなるはずだ」と語っている。
人は確実に訪れる死から漠然とした将来への不安や自分に足りていないものばかりに目を向けてしまい、結果として時間泥棒に付け入るスキを与えてしまうみたいだ。
さらにwikipediaにはこんな解釈が紹介されてた。
ストーリーには、忙しさの中で生きることの意味を忘れてしまった人々に対する警鐘が読み取れる。このモモという物語の中では灰色の男たちによって時間が奪われたという設定のため、多くの書評はこの物語は余裕を忘れた現代人に注意を促すことが目的であると受け止めていた。一方では、この「時間」を「お金」に変換し、利子が利子を生む現代の経済システムに疑問を抱かせるという側面もある。このことに最初に気が付き、エンデ本人に確認を取ったのはドイツの経済学者、ヴェルナー・オンケンである。
物語の中の人々は時間を節約(貯蓄)するために生活の中から無駄を削り、効率を崇め、誰もが不幸を享受するようになっていた。
時間≒お金であるならば経済システムだけでなく金銭のためだけに生きる人々、言い換えると「お金に使われている社会」って構造まで見えてくる。
こうなるともう批判しているのは「近代化」って気もしてくる。
また、「効率化」の象徴として序盤に登場する子供のおもちゃ。
現代じゃ特に珍しくもない子供の人形やラジコン、おもちゃのラジオ。
そういうものに対してモモは「そんなものを使っても本当の遊びはできない」と考え、何に使うのか理解すら及ばなかった。
曰く、完成されつくしているため決まったことしかできないから、らしい。
時間泥棒とか時間貯蓄銀行なんてファンタジーの中の名称が出てくると理解が遅くなってしまうけれど、こういう現実に即したもので例えられると自分の身の回りで起こることだと一気に考えさせられる。
これもまた、近代化批判の一種なんだろうな。
もう自分でも何を言ってるのかわからなくなってきたけれど、
一つ言えるのは小学・中学の頃に読んだとこで当時の自分に理解できたかどうかは怪しいってことだな。
現在中一の妹を観察していると特に。
なまじ「児童書」って括りにされてると本当に読むべき年代に手に取ってもらえないんじゃないかな、これ。
今まで読んできたフィクションの中のどれよりも重かった。
教授が「ミヒャエル・エンデを読むべきだ」って言ってた意味が分かった気がする。
自分もほかの著作が読みたくなってきたし。
明日はエンデ本人の著作ではないけれど「エンデの遺言」を読んでみようと思う。
風刺ではない、直の訴えが知れるだろうから。