給食の話
今日、トレーニングに行くとまたこの前の体臭のきつい人が来ていた。
今度こそは態度に出すまいと心に決めて挑んだものの、やはり体が拒む。
彼が近づいてくるたびに鼓動が早くなるし、臭いが自分のもとに届くとやはり顔をしかめてしまう。
十分に距離をとっていると安心していても実は風上に立っていて5m以上離れていてもダイレクトに臭いが届く、なんてこともあった。
最初は「やっぱり自分って・・・」って思ってたけれど、時間が経つにつれてなんだかイライラしてきた。
このレベルにもなるとさすがに自分で自分の臭いが分からない、なんてこともあるまいにその対策を怠ってるっていうのは怠慢の誹りを免れないだろう。
せめて臭い消しみたいなのをつけてくれば鬼ごっこみたいな現状を変えられるのに。
というか他の人たちはノーリアクションだけれども鼻はちゃんと利いているんだろうか
今週のお題「給食」
家庭教師が来ている間に積ん読だった「衆愚の時代」を読んだ。
その中に”弁当は社会の縮図だった”って章があった。
曰く、給食がなかったころは各家庭が弁当を持ち寄っており、その内容がその家庭の財政を如実に表していた。
他人の弁当の中身と比較して貧しい家庭の子供たちは「のし上がってやろう」というハングリー精神を培うことができた。
しかし、給食制度が始まったことで子供たちは十分な栄養を得ることができた反面、格差を意識する機会を失ったことで「一億総中流」の時代に突入し、今の若者は欲望知らないまま育ってしまった、んだとか。
調べてみると学校給食法が始まったのは1954年のことらしい。
始まって60年以上経ってるのか。
小学校・中学校の頃は好き嫌いが今より多く、給食時間の終わりまで隣の卓の友達と喋って時間稼ぎをしてやり過ごすのが常だった。
その偏食は妹にも引き継がれていたみたいで小学校の頃はよく給食のことでさんざん愚痴を垂れていたみたいだ。
何が嫌いって野菜が嫌い。
副食の皿に盛られるサラダを見ると毎回げんなりしてた。
液体で流し込もうにも手持ちは牛乳のみ・・・
今から考えると白米に牛乳って組み合わせもないね。
あと、給食のせいでシシャモが嫌いになった。今でも食べれない。
逆に、美味しかった献立と言ったらやはりカレーだろうか。
ただ、おかわりは全部食べ切った人のみに許される、みたいな不文律があったからお代わりに行った記憶はないけれど。
あとマイナーかわからないけれども「マカロニのトマトソース和え」っていうのも好きだったはず。
マカロニの食感とトマトソースの酸味が美味しかった、気がする。
トマト自体は長いこと食べられなかったのにね。
そういえば給食にケチャップやトマトソースなんかの加工品は登場したけれどもそのものトマトは登場したことは1度もなかったなぁ。
なんて話を昔、食品衛生について学んでいる人に聞いたらトマトは衛生管理が大変とかなんとか。
細かい事情はよく分からなかったけれども小学校時代にトマトが出ることがなくて本当によかった。
その後自分で調理するようになってなんの苦も無くトマトを食べれるようにはなったけど。
書いてたら給食を食べたくなってきた。
特に今日は桃の節句、ひなあられが登場したはずだ。
記憶では一人当たりものすごい量のひなあられが渡されて、昼休みが終わるころまで食べても食べきれなかったはず。
今のサイズになってからだとやっぱり量とか感じ方が違うんだろうか。